人的資本モデル

本資料は、大森義明・永瀬伸子(2021)『労働経済学をつかむ』(有斐閣)を参考に作成しています。
授業の目的に合わせて、一部構成や表現を調整しています。

就職活動やキャリア形成を考えるとき、「なぜ大学に通うのか」「企業はなぜ人を育てるのか」「なぜ同じ会社で長く働く人が多いのか」といった素朴な疑問が浮かぶかもしれません。

この章では、教育・能力・訓練・雇用制度に関する理論モデルを通じて、こうした疑問に対して経済学的な視点からの理解や示唆を得ることを目指します。

教育・訓練と人的資本

人的資本モデルとシグナリングモデル

高卒と大卒の収入の差

高校卒業後に就職するか、それとも大学に進学するか—みなさんも一度は進路について考えたことがあると思います。その際に、「高卒」と「大卒」とで、将来的にどれくらい収入が変わるのかについて考えた人もいるのではないでしょうか。

日本における平均初任給、生涯賃金は以下の表のとおりです。

厚生労働省「賃金構造基本統計調査」2019年
高卒初任給 大卒初任給 高卒と大卒の差
167,400円 210,200円 43,000円
1高卒生涯賃金 大卒・大学院卒生涯賃金 高卒と大卒の差
2億1千万円 2億7千万円 6千万円

2023年度の私立大学の平均的な4年間の学費2は、文系学部で約410万円、理系学部で約540万円3です。

大学進学をしたら400~500万円の学費がかかるが、生涯賃金は6千万増える。平均的な学生にとっては、大学進学は良い投資4だと言えるでしょう。

収入と費用のフロー(学歴別)

人的資本モデル

このように、人が持つ知識や能力などを投資の対象となる資本とらえる考え方を人的資本モデルと言います。

Note人的資本モデル

知識、能力、スキルなど、労働者による労働サービスの(企業にとっての)価値を生む総体を人的資本ととらえ、人的資本に投資する(教育・訓練を行う)ことで個人のスキルや能力が高くなるという考え方

人的資本が蓄積される分、企業での生産性が向上し、それに伴い収入も上がることを想定する

その他の条件が一定のもとで、大卒の期待収益から大学進学の費用を差し引いた純収益が、高卒のそれを上回る人は大学に進学します。

現状、日本の高卒者の半数は大学進学していますが、大学に進学しない人がいるのはなぜでしょうか?

① 受験や大学卒業には心理的費用(努力や忍耐)を必要とするため

学習能力の高い人(努力のコストが低い人)が大学進学をする傾向があります。

② 人は将来よりも現在を重視する(将来の価値を割り引く、現在価値に換算する)傾向があるため

先ほどのグラフでは、現在の大学進学の費用と将来の収入を同じ金額として扱っていましたが、実際の意思決定では将来の収入は割り引かれて評価されます。未来志向の人ほど大学進学をする傾向があります。

③ 平均的な生涯賃金よりも低い生涯賃金しか期待できない人がいるため

中にはパートやアルバイトで働いたり、無職になったりする人もいます。先ほどの生涯賃金は平均的な賃金と退職金が支払われることを想定しているため、それよりも低い生涯賃金しか期待できない人もいます。また、雇用機会により期待できる生涯賃金が異なるため、日本では雇用で差別されがちな女性より、男性の方が大学進学をする傾向があります。

ただし、ほとんどのOECD加盟国では1990年代前半に男女の進学率が逆転し、女性の方が男性よりも大学進学率が高くなっています。

④ 学費を工面できないため

大学進学には学費がかかり、これが工面できない人もいます。経済学では、これを借り入れ制約とよびます。このため、裕福な家庭の人ほど大学進学をする傾向があります。奨学金などの学生への貸付制度には、この制約を緩和する働きがあります。

シグナリングモデル

大学進学の意思決定については、人的資本投資の考え方とは異なるシグナリングという考え方もあります。

Noteシグナリングモデル

人には生まれつき能力に差があるが、企業には誰が高い能力の持ち主であるかを容易には判断できない(個人の能力に対して情報の非対称性がある)とき、教育は(能力を高める手段ではなく)労働市場において個人の能力の高さを企業に示すシグナルとして機能するという考え方

生まれつきの能力が高い人は教育コストが低いため、より高い学歴を取得しやすく、企業は学歴をもとに採用判断を行う

人的資本モデルとシグナリングモデルでは、(大学)教育の役割が異なります。

人的資本モデルにおける(大学)教育:教育を行うことによって人的資本(個人のスキルや能力)が高まる

\(\rightarrow\) 人的資本を養う機能

シグナリングモデルにおける(大学)教育:教育は能力を引き上げる役割ではなく、教育を受けられるほどその人の能力が高いことを示す

\(\rightarrow\) 選別機能

人的資本モデルとシグナリングモデル、どちらのモデルが正しいかをデータから識別することは難しいです。どちらのモデルも、能力が高い人が大学進学をする傾向があり、大卒者の方が高卒者よりも平均賃金が高くなることを示唆しているからです。ただし、偶然に教育年数が長くなると賃金が上がるという研究結果もありますので、大学教育には多少なりとも人的資本を蓄積する役割があると言えるでしょう。

Importantまとめ:人的資本モデルとシグナリングモデル

人的資本モデル

  • 労働者が価値を生む総体を人的資本ととらえ、そこに投資する(教育・訓練を行う)ことで個人の能力が上昇するという考え方。
    • 投資後の期待収益から投資のコスト(直接・間接費用を含む)を差し引いた純収益が正の時に人的資本への投資を行う。

シグナリングモデル

  • 個人の生まれつきの能力には差があるが、能力に対する情報が非対称であるため、教育は能力の高さを示すシグナルとして機能するという考え方。
    • このモデルにおいては教育は個人の能力を引き上げない。

確認クイズ:

次の文章に適切な語句を入れなさい。

人的資本とは、知識、能力、技能など、労働者による労働サービスの(企業にとっての)価値を生む総体のことを指す。大学進学は一種の であり、先に (受験勉強や学費)を負担し、卒業後に不確実な (生涯賃金)を得る。その他の条件を一定をすれば、2つの差である が高卒のそれを上回る人は大学に進学する


語句

収益 費用 消費 投資 純収益

モデルの応用:教育における男女の差異

人的資本モデルは、教育における男女の差異を理解するのに役立ちます。

日本の大学進学率の推移

『大森義明・永瀬伸子(2021)労働経済学をつかむ』図7-2 高等教育進学率
  • 1954年当時、高等学校進学者は男女ともにほぼ半数
  • 1960年代の高度成長期:家庭所得の高まりとホワイトカラー職の拡大 \(\rightarrow\) 進学率上昇
    • 1975年には男女とも9割以上が高校進学
    • 同時期に男性大学進学率も1割 \(\rightarrow\) 4割に上昇
  • 女性は大学進学率ではなく短大進学率が先に上昇
  • 1986年:男女雇用機会均等法
    • 1994年:女性短大進学率がピーク、以降大学進学率が逆転
  • 2019年:大学進学率は男性56.6%、女性50.7%

欧米諸国では、近年は女性の大学進学率が男性を上回るようになりました。日本においても、女性の雇用推進に伴い、女性の大学進学率が上昇してきたことが見て取れます。

かつては新卒採用を男女別に実施する企業が多く、女性は未婚期のみに補助的な業務に従事することが暗黙の前提になっていました。女性の結婚退職・出産退職を奨励するような退職金の割増制度をもつ企業も少なくなく、実際、1985年当時の大企業の勤続年数は男性12.2年、女性4.4年(賃金構造基本統計調査)だったそうです。

こうした状況では、女性が大学進学をしても将来的に得られる収入の増加が期待しにくく、進学を選ばない傾向が強かったのも理解できます。

しかし、日本でも1990年代後半以降、女性の4年制大学向が強まっています。

  • 新卒採用やキャリアの男女格差の縮小
  • 専業主婦という未来像の現実性が縮小(ライフパターンの変化
  • 1997,2006,2016年の男女雇用機会均等法の改正による強化
  • 育児・介護休業制度の強化

このような環境の変化により、女性の人的資本投資行動が男性と類似してきた側面があるとみられています。

また、大学進学率の推移はシグナリングとしてとらえることもできます

女性は、4年制大学に進学し、4年間の学校教育投資を行うことで、長期的に就業する意思を企業側に示せるからです。実際に、1980年当時、女性は文学部や家政学部など、将来主婦として家庭内で過ごすことを想定した選択が多かったのですが、これが徐々に変化しています。

ただ、依然として専攻する学部には大きな男女差が存在します。

文部科学省「学校基本調査」2019年
学部 女性比率
文学部 65%
法・政治学部 33%
商・経済学部 30%
理学部 28%
工学部 15%

文系学部では比較的女性比率が高く、理系学部では女性比率は低くなる傾向があります。

STEMScience, Technology, Engineering and Mathematics: 科学・技術・工学・数学分野は、大きく発展しており、女性の参入も期待されている分野ではありますが、日本ではまだまだ男子学生が多数を占め、親や学校による進路指導におけるジェンダー・バイアスが疑われます。

男性だけではなく、女性が技術開発に関わることでイノベーションが促進されるという研究結果もあるので、日本においてもSTEM分野への女性の進出が期待されます。

大学進学によって見込まれる収入は男女でどのように差があるのでしょうか?

大森義明・永瀬伸子(2021)『労働経済学をつかむ』図7-3 男女別・学歴別・年齢階級別の平均所定内給与
  • 大学・大学院卒の男女差:20~24歳時の差はほとんどない。男性は年齢とともに所定内給与が上昇するが、女性の上昇幅はそれよりも小さいく男性高校卒より若干高い程度
  • 高卒の男女差:男性は年齢とともに所定内給与が上昇するが、女性はあまり上昇しない

学歴や仕事経験によって賃金が異なる現象は、さまざまな国で見られます。

Figure 1: 大森義明・永瀬伸子(2021)『労働経済学をつかむ』図7-4 学歴と賃金の関係(日本の後期中等教育、数学レベル2の男性=100)
  • どの国でも学歴による月収の格差がある
  • 実は、日本は「数学的思考力」「国語力」ともにOECDの中でも平均より高く分散も小さいが、学歴による賃金の差は小さい
  • 学歴による賃金の差はアメリカ \(>\) ドイツ \(>\) 日本の順に大きい
    • 日本では、大卒でありながら高卒程度の学歴でこなせる仕事に就くものの割合が高いという指摘(国立教育政策研究所)
    • 日本では、大卒が若年期に下積みをする傾向がある、仕事への応募に学歴要件が明確なポストが少ないという指摘(三谷, 20205
  • 日本において、高等教育を受けた女性の月収は高卒程度の男性のよりも低い

確認クイズ:

女性の大学進学がシグナリングとして働くとはどういう意味でしょうか?

企業内訓練

人的資本への投資は、学校教育によってのみ行われるものではなく、働き始めたあとも仕事の中での訓練や研修、仕事の経験の積み重ねといった形で続いていきます。

生産性は、教育だけではなく、訓練(training)、従事している仕事の中での熟練(learning-by-doing)によって上昇し、生産性の上昇とともに賃金も上昇します。

学校教育と仕事の中での訓練にはどのような違いがあるでしょうか。

学校教育

  • 学費を支払うので費用を意識しやすい
  • 将来の賃金や就職のしやすさといった便益を得られる
  • 幅広い企業で生かせる能力を身に着けているととらえられる

仕事の中での訓練

  • 費用は発生しているが労働者は支払わず、逆に給料をもらいながら訓練を受ける
  • その企業での生産性が上昇し、それに伴い賃金も上昇するという便益を得られる
  • その企業の中でしか生かせない能力を身に着けることもある
Note一般的人的資本と企業特殊的人的資本

一般的人的資本:どの企業でも通用する(どの企業での生産性にも寄与する)人的資本

企業特殊的人的資本:その企業でのみ役に立つ(その企業での生産性にのみ寄与する)人的資本

一般的人的資本に対する投資を一般的訓練、企業特殊的人的資本に対する投資を企業特殊的訓練と区別するが、現実にはこの2つを厳密に分けることは難しい

この2つの人的資本には、収益の性質に差があります。一般的人的資本はその便益を労働者が受け取り、企業特殊的人的資本は労働者と企業の両者に便益をもたらす。この違いはなぜ生まれるのか、以下で詳しく見ていきましょう。

一般的訓練

Tip大卒で銀行に就職したユウコの例

3月に大学を卒業したユウコは、4月から大手銀行で働き始めた。

しかし、給与の手取り額が想像以上に少ないのに、正直驚いている。社会保険料や税金のほかに、資格を取得するための研修費用が給料から天引きされているのである。また、見習い期間中は賃金が低く、見習い期間を過ぎると賃金が上がるそうだ。

この例において、資格を取得するための研修がもたらす便益には、以下のようなものが考えられます。

  • 資格をほかの銀行でも活かすことができ、転職時の賃金でも評価される
  • 社会人としての基礎的なマナーを身に着けることでほかの会社でも評価される
  • 労働者の限界生産物の増加によって、労働の限界収入を増加させる

このように、どの企業でも通用する能力を身に着けるための訓練は一般的訓練です。

理論的には、一般的訓練の便益は労働者が100%引き受けることになり、企業は生産性の向上を労働者の賃金に100%反映させることになります。

なぜなら、こうしないと労働者が他企業に引き抜かれてしまうからです。一般的訓練は汎用性があるので、労働者の生産性は他企業でも同じだけ向上しています。

ユウコの銀行では見習い期間を終えるだけでなく、資格をとるとさらに給料が高くなるそうです。資格を取得する過程で生産性が向上しているので、給与が上がらなければ、ほかの銀行に引き抜かれてしまうでしょう。

一方、訓練の費用は労働の限界収入の減少分と訓練の直接(金銭的)費用の和です。

  • 訓練に費やす時間の分、労働時間が減少し、(訓練をしていないときと比べて)労働の限界生産性が減少することで、結果労働の限界収益が減少する
  • 研修費用など直接的な金銭費用が発生する場合もある

  • 訓練前の労働の限界収入は \(w_0\)
  • 訓練期間中は労働時間が減少するため、労働の限界収入が \(w_1\) に減少
    • 見習い期間中の賃金は低い
  • 訓練期間後は生産性が向上し、労働の限界収入が \(w_2\) に増加
    • それに伴い賃金も上昇
  • 訓練の総費用は赤い長方形の面積分、労働者が受け取る訓練の収益は青い長方形の面積分

訓練の収益は100%労働者が受け取るため、訓練の費用は100%労働者が負担します。企業が負担してしまうと、引き抜かれたときに訓練の費用分だけ損してしまうからです。

一般的訓練は、経験年数とともに賃金が上昇することを示唆します。

  • 訓練期間中の賃金は \(w_1\) \(\rightarrow\) 訓練を受けない場合の賃金 \(w_0\) よりも低い
  • 訓練期間中の賃金は \(w_2\) \(\rightarrow\) 訓練を受けない場合の賃金 \(w_0\) よりも高い

\(\rightarrow\) 一般的訓練が雇用期間中に頻繁に行われていくとすれば、賃金は経験年数とともに上昇する

ここで言う経験年数とは、労働市場で働いた年数のことを指します。

重要なのは、一般的訓練による賃金の上昇は、労働者が他企業に転職しても起こるということです。 労働者の訓練後の高い生産性に見合う賃金が支払われなければ、労働者は転職する可能性があるのです。

確認クイズ:

なぜ一般的訓練において、その費用と便益はすべて労働者に帰属するのが合理的なのでしょうか?

企業特殊訓練モデル

ユウコが、資格を取得するための研修ではなく、自社のサービス固有の知識や技術(例えば、特定のシステムや機械の操作方法、社内の業務フローや規定など)を習得するための研修(企業特殊的訓練)を受けていたらどうなるでしょうか。

このときの研修がもたらす便益は、以下のような性質を持ちます。

  • 労働者の生産性の向上は、労働者と企業の雇用関係が続く限り両者に便益をもたらす
  • 労働者が離職する、あるいは企業が解雇することで雇用関係が終われば、労働者も企業も便益を受け取ることができない

理論的には、企業特殊的訓練の費用と便益は、企業と労働者とでシェアする(企業と労働者の共同投資の形をとる)ことになります。

このことは、企業と労働者、それぞれが費用や便益を100%引き受けるケースを考えると分かります。

費用と便益の引受 詳細な説明
労働者 スキルが企業内でしか使えないため、将来の収益が見えず、訓練に投資しようとしない。
企業 労働者が辞めると訓練による生産性向上の便益を企業が回収できず、訓練に投資したがらない。

このように、労働者と企業のいずれにも企業特殊的訓練の費用を単独で負担するインセンティブがなく、費用をシェアするのであれば、便益もシェアをする必要が生じるのです。

企業特殊的訓練の費用と便益をシェアすることで、雇用関係を維持するインセンティブも生まれます。企業が解雇するにしても、労働者が自ら離職するにしても、双方は雇用関係を維持していれば受け取れた企業特殊的訓練の便益を失うことになるからです。

企業特殊訓練の場合、勤続年数と賃金の関係は下図のように表すことができます。

  • 訓練前の労働の限界収入は \(w_0\)
  • 訓練期間中は労働時間が減少するため、労働の限界収入が \(w_1\) に減少
    • 訓練の費用を企業とシェアするため、賃金は \(w'_1\)
  • 訓練期間後は生産性が向上し、労働の限界収入が \(w_2\) に増加
    • 訓練の便益も企業とシェアするため、賃金は \(w'_2\)
  • 労働者が負担する訓練費用は赤い長方形の面積分企業が負担する訓練費用は赤い網掛けの面積分
  • 労働者が受け取る訓練の便益は青い長方形の面積分企業が受け取る訓練の便益は青い網掛けの面積分

企業特殊訓練は、勤続年数とともに賃金が上昇することを示唆します。

  • 訓練期間中の賃金は \(w'_1\) \(\rightarrow\) 訓練を受けない場合の賃金 \(w_0\) よりも低い
  • 訓練期間中の賃金は \(w'_2\) \(\rightarrow\) 訓練を受けない場合の賃金 \(w_0\) よりも高い

\(\rightarrow\) 企業特殊訓練が雇用期間中に頻繁に行われていくとすれば、賃金は勤続年数とともに上昇する

ここで言う勤続年数とは、特定の企業で働いた年数を指します。1つの企業で2年働いた場合は勤続年数2年ですが、2つの企業で1年ずつ働いた場合には、今の企業での勤続年数は1年になります。

重要なのは、企業特殊訓練による賃金成長は、労働者がその企業で働き続ける間だけ続き、転職したら終わるという点です。

企業特殊訓練の成果は他の企業で生かすことはできないため、訓練を終えた労働者が他の企業に転職した際は、 \(w_0\) の賃金しか期待できなくなるのです。労働者は訓練費用の一部を負担したにもかかわらず便益を受け取れないことになりますので、他の理由がない限り労働者に転職をするインセンティブは生まれません。

Importantまとめ:一般的訓練と企業特殊的訓練

一般的訓練

  • どの企業でも通用する人的資本に対する訓練
  • 訓練の費用と便益は、100%労働者に帰属する
  • 経験年数とともに賃金が上昇することを示唆する

\(\rightarrow\) 他の企業に転職しても賃金は上昇する

企業特殊的訓練

  • その企業でのみ役に立つ人的資本に対する訓練
  • 訓練の費用と便益は、労働者と企業でシェアする
  • 勤続年数とともに賃金が上昇することを示唆する

\(\rightarrow\) 両者に雇用関係を維持するインセンティブが生じる

確認クイズ:

次の文章に、適切な語句を入れなさい。

訓練には一般的訓練と があり、前者は賃金が とともに上がることを、後者は賃金が とともに上がることを示唆する。一般的訓練では、訓練の便益の100%を労働者が享受することになるため、費用も100% の負担となる。企業特殊的訓練では、便益と費用が企業と労働者との間でシェアされ、両者に するインセンティブが生まれる。

大卒の賃金が高卒よりも年齢による上昇が大きい理由

一般的訓練と企業特殊訓練を区別することで、において、大卒層の方が高卒層よりも年齢階級による平均賃金の上がり方が急になっている理由を一定程度推察できます。

恐らく、大卒者に対して高卒者よりも多くの企業内訓練が提供されているからです。つまり、大卒者に対してより多くの人的資本投資が行われていると考えられます。なぜそのような区別を行うかというと、恐らく過去の経験から、大卒者の方が投資効果があるからでしょう。

そうして労働生産性が上がった労働者を、企業は長く働かせたくなります。投資を受けた賃金の高い大卒者がより長時間働くことで、労働所得は増加し、大卒者と高卒者の格差はさらに拡大すると考えられます。

一方、同じ大卒者同士でも、男女で年齢階級による平均賃金の上昇率が異なるのはなぜでしょうか?

図からだけでは分かりませんが、恐らく以下のような点が理由になっていると考えられます。

  • 女性は出産等の理由で育児休業の取得や時短勤務、一時的な離職や再就職を行うことで、就業年数が短くなる傾向があり、企業内訓練の総量が少なくなる
  • 「女性の方が男性よりも離職する可能性が高い」と企業が考えれば、企業が費用を負担する企業内訓練は、女性に対して少なくしか実施されない(企業特殊的訓練の実施における男女差別

このような差別に対抗するには、自分自身の経済負担で一般的人的資本投資を行うことや、よりマッチする企業を探すことが必要になります。

確認クイズ:

なぜ、大卒者の方が高卒者よりも年齢とともに賃金が上昇しやすいのでしょうか?

また、大卒でも男女で賃金の上昇幅に違いがあるのはなぜだと考えられますか?

長期雇用の賃金決定のメカニズム

勤続年数と賃金

Important復習:勤続年数と賃金の関係:企業特殊訓練モデルによる説明

訓練を行うことで、経験年数勤続年数とともに賃金が上昇することを示唆する

  • 勤続年数の低い時期に行われた訓練が、勤続年数の高い時期に労働者の限界生産性(と賃金)を引き上げる
  • 現実の賃金格差をある程度説明する
    • 学歴間賃金格差:高卒よりも大卒に対して多く訓練投資する
    • 正規非正規間賃金格差:短時間労働者よりも長時間労働者に対して多く訓練投資する
    • 男女間賃金格差:女性の方が離職期間が多く訓練の量が少ない/女性の方が離職確率が高いと企業が思うと女性に対して少なく訓練投資を行う

年齢や勤続年数と賃金の間の関係を説明できるのは企業特殊的訓練モデルだけではありません。

  • 後払い賃金の理論
  • ジョブ・サーチ理論
    • 仕事をしながらより賃金の高い職を探す状況
    • 今の賃金が高い労働者:今の賃金を上回る企業からのオファーが簡単にはないので、転職確率が低くなり、結果として勤続年数が長くなる
    • 今の賃金が低い労働者:今の賃金を上回る企業に転職するため、勤続年数は短くなる
    • 賃金が高いから勤続年数が長くなる(企業特殊的訓練モデルとは逆の因果関係)

この章では、後払い賃金の理論を紹介します。

後払い賃金の理論

後払い賃金の理論を考えるにあたって、訓練もジョブサーチ(転職活動)もないと仮定します。

訓練を行わないので、人的資本が蓄積されず、生産性は向上しません。

ジョブサーチもないので、賃金の高い企業に転職することによって賃金を上げることもできません。

それにもかかわらず勤続年数とともに賃金が上昇することを別の側面から説明できるのが後払い賃金の理論です。

Note後払い賃金の理論

人的資本とは無関係に)労働者の勤続年数が短いときに低い賃金を支払い、勤続年数が長いときに高い賃金を支払う年功賃金制度が合理的であることを説明する考え方。

後払い賃金を導入する目的として以下の3点がある。

  1. 怠けの抑制
  2. 離職・転職の抑止
  3. 企業特殊訓練(後払い賃金の一種として解釈できる)

1. 怠けの抑制

一般的には、企業が労働者を監視(モニタリング)することで、労働者が怠けることを防げますが、モニタリングには一定のコストがかかります。 具体的には、監視者を配置する際の人件費、PCの画面を監視できるようなシステムを導入するコストなんかが挙げられます。

そこで、後払い賃金にすることで、労働者に真面目に働くインセンティブを与えることができます。

  • 勤続年数の前半では労働者の限界生産性の価値を下回る賃金を支払う
    • 生産性の価値との差額を企業に貸し出す(赤い三角形)
  • 勤続年数の後半では労働者の限界生産性の価値を上回る賃金を支払う
    • 貸し出していた生産性の価値との差額を返済される(青い三角形)

このような後払い賃金制度にすると、途中でサボりが見つかると解雇され、貸し出していた生産性の価値を受け取れなくなるリスクがあるため、労働者は監視をしなくとも真面目に働くインセンティブがあるのです。

労働者としても、監視コスト(\(m\))がかからない分、監視を行うときの賃金(\((W-m)\times T\)、網掛けの長方形)よりも高い賃金を得られるメリットがあります。

後払い賃金制度によって企業と労働者ともに高い生産性を実現できるとするこの理論を、怠けの理論Shirking model)と呼びます。

この理論が成り立つには、企業が嘘をついて貯金を搾取しないことが重要です。企業の評判が採用に重要であることがこの嘘を抑止すると考えられています。

2. 離職・転職の抑止

企業が新しい労働者を雇うときには、採用費用や訓練費用などを負担する必要があるので、いかにして労働者の離職・転職を防ぐかは企業にとって大きな課題です。

後払い賃金制度にすることは、仕事に飽きやすい・忍耐力のない労働者が応募してくることを防ぐインセンティブになります。 後払い賃金制度の下では、労働者は長期間その企業で働かないと貸し出した報酬の返済を受けることができないためです。

3. 企業特殊訓練

企業特殊訓練モデルで学んだように、企業特殊訓練は労働者と企業が人的資本に対して共同投資を行います。

これは、企業が人的資本投資をした労働者の離職が起きれば、訓練費用が無駄になってしまうからです。 そのため、勤続年数が短い労働者には他企業よりも低い賃金を支払い、勤続年数が長い労働者には他企業よりも高い賃金を支払うことで離職を防ぎます。

これも後払い賃金の一種です。企業特殊訓練の場合には、企業は労働者の離職を防ぐことによって、人的資本投資の成果の一部を確保することができます。

確認クイズ:

次の文章に、適切な語句を入れなさい。

後払い賃金の理論に共通するのは、勤続年数が短いときに賃金を抑え、つまり実質的に労働者からお金を しなかった労働者にのみ、勤続年数が長いときに賃金を高める、つまり実質的に労働者にお金を 仕組みである。

企業特殊訓練モデルで企業が後払い賃金を設定し、 を抑制するのは、企業が訓練の便益を回収するためである。

怠けのモデルで企業が後払い賃金を設定するのは、勤続年数が短いときの を抑制するためである。


語句

怠け 預かり 離職 訓練 返す

後払い賃金の理論の応用:年功序列賃金

ここまで学ぶと、後払い賃金の理論が、賃金が勤続年数とともに上昇する年功序列賃金を説明することが分かったでしょう。

後払い賃金の理論の背後にあった、企業が直面する問題は以下のようなものでした。

  • 労働者の怠けを抑制すること
  • 労働者の離職や採用の費用を抑制すること
  • 企業特殊訓練投資の成果を確保すること

これらの問題が重要であるとき、企業にとって、できる限り長期間に渡って賃金を勤続年数とともに上昇させることは経済合理的です。

これらの問題は、日本に限られたものではないため、長期雇用や年功賃金は当然海外でも見られるものです。

一方で、

  • 日本は欧米と比較して勤続年数による賃金上昇が大きい
  • 大企業の管理職において、日本では多くが1社のみの経験、海外では複数社経験することが多い

といった、日本の雇用慣行の独特の面も存在します。

これは欧米企業では、採用における職種が明確であり、企業間の転職を通じて、同じ職種内のより高度な仕事をすることで、職種特殊的人的資本投資ができるという労働市場の特性によるものだと言われています。

後払い賃金の理論の応用:退職金と企業年金

企業を退職する労働者に支払われる退職金や企業年金は、後払い賃金の一種だと考えられます。

Note退職金と企業年金

退職金

  • 企業から退職する労働者に、退職時に一括で支払われる

企業年金

  • 退職金の一部または全部を年金として、一定期間、退職後に支払われる
  • 企業は、掛金を資金運用するために設けられた基金などで、退職金の原資を積み立て、これを金融市場で運用し、労働者が退職した後の一定期間、企業年金を給付する。
    • 確定給付年金:年金給付額を一定の計算式などで事前に約束する形式
    • 確定拠出年金:掛金を決め、その運用実績に応じて給付する形式

経済学的にみると、退職金や企業年金は労働者が長期にわたって働くためのインセンティブだと考えられます。

日本の退職金は欧米に比べるとかなり高い水準ですが、企業年金の給付割合は高くありません。 日本では企業年金の代わりに退職金が発達してきたとも言えます。 企業年金制度のある企業も少なくありませんが、長期勤続に対して税の所得控除が大きいため、退職金として受け取る労働者が少なくないのが現状です。

確認クイズ:

退職金や企業年金は、どのような経済的インセンティブを労働者に与えると考えられますか?

日本的雇用慣行

日本独特の雇用慣行として、以下のような点が挙げられます。

  1. 新卒一括採用
  • 大学在学中に就職活動を行い、卒業後の4月からいっせいに働き始めるという慣行。
  • 入社後数年は「同期」の間では大きい賃金差をつけずに昇格させ、さまざまな職場を経験させながら、やがて同期間で昇進スピードに差をつけていくことが多い。
  1. 年功賃金、終身雇用、企業別労働組合
  • 1980年代に日本的雇用慣行の3種の神器として紹介されてきた特徴。今でも大企業正社員では一定程度見られる。
  • ただし、すでに労働者の4割弱は非正社員であり、年齢によって賃金が上がる度合いは低下しているため、現在はこの日本的雇用慣行の枠外で働く労働者の方が多い。
  1. 内部昇進、企業内訓練慣行
  • 日本の大企業では、長期に定着する社員の中から優秀な人材を昇進させるため、新入社員の選抜に時間をかけ、入社後は職場で訓練を実施し、就業継続を促すよう勤続が評価されるような賃金構造を形成してきた。
  • 海外、例えばアメリカでは、ポストに空きが出たときには内部昇進だけでなく外部からの採用も検討する。
    • 賃金は個人の経験・能力に応じて採用時の契約で決まる。そうした雇用慣行を支えるべく、賃金を調査する企業が、職種あるいは地域ごとに賃金相場を公表している。
  • 内部昇進は企業内の人材育成の仕組みを活発にし、技能伝承が起こりやすい反面、非正規雇用者が活用されにくい、幹部候補生(長期雇用だが転勤あり)に女性の応募が少なくなる、社内にない発想が生まれづらいというデメリットがある。
  1. 強い配転命令権
  • 長期雇用を約束する代わりに、企業側に強い配転命令権や残業を命令権がある。
    • 長期雇用を約束する代わりに、景気変動や産業構造の変化に対応するため、景気が良いときに残業を増やしたり、採用条件に転勤や配置転換が盛り込まれている(いわゆる総合職)。
    • 転勤を受け入れたくない場合は一般職地域総合職で就職するが、その代わりに昇進スピードは遅い。
  • 就業規則という形の集団的な契約に従わなければいけない。
    • アメリカでは雇用契約は個別で締結され、転勤するかどうかは、その時々の個人のキャリア選択である。

確認クイズ:

次の文章に、適切な語句を入れなさい。

日本的雇用の3種の神器として などがあげられ、高度成長期にこうした働き方が完成し、その後の日本の経済成長を支えてきたという評価がなされている。

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Footnotes

  1. 「賃金構造基本統計調査」2017年から推計、労働政策研究・研修機構「ユースフル労働統計2018」↩︎

  2. 文部科学省「令和5年度私立大学入学者に係る初年度学生納付金等平均額」↩︎

  3. 医歯系学部は卒業までに6年間在籍が必要です。平均的な6年間の学費は約2350万円です。↩︎

  4. 一般に、先に費用を負担し、将来的に不確実な収益を得る取引のことを投資と言います。↩︎

  5. 三谷直紀(2020)「日本のOJTとPIACCの調査」『日本労働研究雑誌』第62巻第2・3号, 143-147頁↩︎